提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska (国旗) (国章) 国の標語 : なし1 国歌 : ドンブロフスキのマズルカ 公用語 ポーランド語 首都 ワルシャワ 最大の都市 ワルシャワ 政府 大統領 レフ・カチンスキ 首相 ドナルド・トゥスク 面積 総計 312,685km2(68位) 水面積率 2.6% 人口 総計(2008年) 38,074,000人(34位) 人口密度 124人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2008年) 1兆2,666億[1]ズウォティ GDP(MER) 合計(2008年) 5,257億[1]ドル(23位) GDP(PPP) 合計(2008年) 6,660億[1]ドル(22位) 1人当り 17,481[1]ドル 独立 ロシア帝国から 1918年11月11日 通貨 ズウォティ(PLN) 時間帯 UTC +1(DST: +2) ccTLD PL 国際電話番号 48 注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bog, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。 ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。 10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけては大王国を形成した。その後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割されて消滅した。第一次世界大戦後の1918年に独立したが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の侵略を受けて再び国土が分割された。戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活、1989年に民主化を果たして共和国となる。 冷戦時代はソ連の影響下に置かれ、共産主義政権が支配したため、政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから中欧または中東欧として再び分類されるようになっている。首都はワルシャワ。 ポーランドの北にはバルト海が広がり、北東ではロシアの飛地であるカリーニングラード州とリトアニア、東ではベラルーシとウクライナ、南ではチェコとスロバキア、西ではドイツと接する。 目次 [非表示] 1 国名 2 歴史 2.1 ポーランド王国成立以前 2.2 王国の黎明期 2.3 長い分裂時代 2.4 黄金時代 2.5 対外戦争の時代 2.6 ポーランド分割 2.7 つかの間の再興 2.8 独立運動の時代 2.9 独立と第二共和国 2.10 第二次世界大戦 2.11 戦後 2.12 民主化から現在 2.13 西欧への回帰-欧州連合とシェンゲン協定 3 政治 3.1 外交 3.2 地方行政区分 3.3 主要都市 4 地理 4.1 地質 4.2 気候 5 経済 5.1 概況 5.2 税制 5.3 工業 5.4 農業 5.5 鉱業 6 国民 6.1 言語 6.2 宗教 6.3 若者の国 6.4 ポーランド人の苗字 6.5 著名なポーランド人 7 文化 7.1 食文化 7.2 住居 7.3 教育 7.4 音楽 7.5 世界遺産 7.6 観光 7.7 スポーツ 8 祝祭日・年間行事 9 書籍 10 出典 11 関連項目 12 外部リンク 国名 [編集] ポーランド正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska(ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称 Polska。略称 RP。 公式の英語表記は Republic of Poland。通称 Poland。 日本語の表記はポーランド共和国。通称ポーランド(波蘭)、略語は波。 ポーランドの国名の「ポルスカ(Polska)」は野原を意味する「ポーレ (pole)」 が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ/レック族(Lechici)」といい、また同時に「ポラン族(Polanie)」とも称した(「レフ/レック」Lechは古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、LechはPoleと同じく「野原」を原義とするともいわれる)。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。 すなわちポルスカ(Polska)はこの「ポラン族(Polanie)の国」というのが元来の意味となる。 「共和国」に相当する "Rzeczpospolita"(ジェチュポスポリタ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の "res publica"(レス・プブリカ)の翻訳借用である。"res"(レス)には「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語では"rzecz"(ジェチュ)がこれにあたる。"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味で、ポーランド語では "pospolita"(ポスポリタ)にあたる。 歴史 [編集] 詳細は「ポーランドの歴史」、「ポーランド王国」をそれぞれ参照 ポーランド王国成立以前 [編集] プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルビンツィ文化(赤)ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(Lechici/Polanie)については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(Lugii)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化(Przeworsk culture)」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった「ザルビンツィ文化(Zarubintsy culture)」と似通っていることが考古学調査で判明している。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。 4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族の隣、ヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイ(Lugii)はレフ/レック(Lech)のラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク(Lug)」と「ポーレ(Pole)」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。 6世紀までには現在のポーランドの地にスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。 8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Ko?odziej)」と呼ばれた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」を創始した。 紀元前のポーランドとその周辺(Zarubinskyは正しくはZarubintsy) 3世紀ごろのポーランドとその周辺 チェルニャコフ(Chernyakhov)文化は南下して黒海に到達したゴート人 6世紀ごろのポーランドとその周辺 8世紀ごろのポーランドとその周辺 王国の黎明期 [編集] 濃いピンクは992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国領 赤太線は1025年に確定したポーランド王国の国境線 王国の国境線の外側にある濃いピンク、濃い黄色、青の地域はボレスワフ1世が治めていた王国外の属領 建国の父ミェシュコ1世 初代国王ボレスワフ1世のキエフ入城966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wis?anie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。 992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ1世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年こんどは西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和(Peace of Bautzen)によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。 1025年、ボレスワフ1世の死の直前にローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。 ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。 1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は混乱を収拾し王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位についた。 長い分裂時代 [編集] ボレスワフ3世が4人の息子と后に分割相続させたポーランド: ?? クラクフ大公領 ?? シロンスク公領 ?? マゾフシェ公領 ?? ヴィエルコポルスカ公領 ?? サンドミェシュ公領 ?? 后の相続領 ?? ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領 1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。 1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世)からの援助を得る見返りに当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえシロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。 以後もクラクフ大公の位は継続したがその権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま各地の領邦にどんどん分裂していった。 当時のドイツ騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァ(マルボルク/マリエンブルク城)1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。 レグニツァ/ワールシュタットの戦いに臨むヘンリク2世1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。 ヴワディスワフ1世ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。 1295年、プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによってプシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王ヴァーツラフ3世)が翌年の1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位し、ポーランド再統一を完成させた。 黄金時代 [編集] カジミェシュ3世「大王」14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1364年、カジミェシュ3世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。 グルンヴァルトの戦い1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討ち、ドイツ騎士団領をポーランド王の支配下に置いた[3]。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団領はポーランド=リトアニア連合に隷属する状態となった。 コペルニクス ルブリン合同 ポーランド=リトアニア同君連合王国の誕生1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(Pawe? W?odkowic、ラテン語名パウルス・ウラディーミリ)は画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である。」というもので、これはまさに現代思想の基本的人権および国際法の理念の世界で初めての提唱であった。 1430年にリトアニア大公のヴィタウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。 ポーランド王国の最大版図1543年、ミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。 1569年、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合の「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア国家は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。 1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子であった時の国王ジグムント2世が男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。以後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。 対外戦争の時代 [編集] ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合 1619年のポーランド=リトアニア共和国の版図(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線 ウイーン防衛を果たしローマ教皇に使者を送り出すヤン3世 5月3日憲法案の公布のため聖ヨハネ大聖堂へ入るポーランド国王スタニスワフ2世(帽子とマントの男性)1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。当初は当時の首都であったクラクフに居を構えた。1596年にはワルシャワに遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。スウェーデンでは叔父で摂政を務めていたカールの反乱がおき、ジグムント3世はスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。 1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国に侵攻しモスクワを占領した(ロシア・ポーランド戦争)。当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことからロシア正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、住民蜂起が起きたため1612年に撤退した。その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に悪化していった。 1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、王国中央政府の権力を強めるため世襲王政を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後王権は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。 ポーランド分割 [編集] ポーランド分割 コシチューシュコ蜂起18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制とともに、世界初の立憲君主制が成立し、ポーランド=リトアニア共和国は単一国家の「ポーランド王国」となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、人類史上初の教育省とされている。立憲君主制、すなわち民主主義に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はエカチェリーナ2世と結託した。ロシア帝国軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥ユゼフ・ポニャトフスキと元アメリカ軍将軍でアメリカ独立戦争の英雄タデウシュ・コシチュシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポーランド側の戦術どおりに進んでいた。しかし抵抗勢力側に寝返った顧問から「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は抵抗勢力側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。 つかの間の再興 [編集] 叙事詩『パン・タデウシュ』第三巻より「きのこ狩り」の場面1807年、ナポレオン戦争でポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、ナポレオンがロシア遠征に失敗して失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(これをもとにしてアンジェイ・ワイダ監督が製作した映画『パン・タデウシュ物語』)と、池田理代子の漫画『天の涯まで-ポーランド秘史』はこの時代を扱っている。
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